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いかけしごむ17日目

稽古場日誌17日目




おはようございます!

熊谷です

さてさて!

本日の稽古も、お芝居後半戦をメインに




前回の稽古では、結果的に通し稽古、

その通し稽古を終えて、

お芝居後半戦の立ち位置などの整理をしていきました。


そのとき出てきたのが、

お芝居をキレイに見せる為に大切な「様式美」



私が第一主義、もとい主宰の沢渡さんに拾われたときに最初に教えてもらったことがあります。


それは、

「気持ちや感情だけでお芝居してたら、精神病になってしまうよ。」というもの。



これは、

あくまで「自分の」「役者自身の」気持ちや感情ということ。


でも、自分が与えられた「役」の感情や気持ちを理解して、それを表現しなければいけない。




主語が、「役者自身」ではなく「役そのもの」であるかどうかの違いなのですが、

これ、一歩間違うと、「役者自身」のそのときの気持ちや感情を、

まるで本当に怒っているかのように、

また、悲しみに打ちひしがれている、というように、

毎回、毎公演、自分自身の心がぎゅっとなるような状態で、

舞台上に立ってしまいかねません。



ですが、

あくまでお芝居は、というか、

役者は表現者のひとつ。


役者自身のそのときのリアルな感情表現ではなく、

役そのものの心がどう動いているのかを、どう表現するべきなのかに重きを置くべき。



と、教えられました。




……と、今偉そうにまとめてみましたが、

「役者は表現者のひとつ」ということに、

やっと自分の理解が追いついたのは、

前回の公演「友達」を終えてからなのですが(^_^;)




ですが、

「精神病になってしまうよ。」というのは、

沢渡さんに拾われたときの熊谷にとってはとてもありがたい教えでした。


だって「役と役者自身は別のものなのに、なぜ自分の感情や気持ちに重きを置くのだろう?」と、

疑問には思っていても、それに対する、自分なりに納得できる考え方を持っていなかったのですから。


「自分とは違うものになりたいから。」というのが、

私が「役者になりたい!」と思った一番の理由だから、より、

というのもあると思います。



これが一番の理由ではあっても、

結局は自分という存在を使ったうえで、役の表現をしますので、

結局はあなた自身じゃん、ということにはなるのですが、

それでも、

自分じゃない「誰か」の人生を、舞台上でなら生きることができる、と思って、

今小劇場という場所に身を置いているわけですが、、、




おわかりでしょうか。


役者は表現者。


何を表現しなければいけないのか。

それは役そのものであり、また役の気持ちや心の動きや生き方、考え方。


それを表現するにはどうすればいいのか。

台本に対する様々な視点の読解力を磨いて、

台本を元にお客さんに伝わるように、わかりやすく表現する。


わかりやすく表現するためにはどうすればいいのか。

セリフがしっかりと伝わるように耳心地よく発声し、

体を使って、パッと見でもわかりやすいようなジェスチャーや体の動き、向きをコントロールする。



……とまぁ、

何が言いたいかといいますと、

役自身の気持ちや感情も大事だし、そのうえで、

それを見せるための見せ方、つまり「様式美」も大事だよ、

というお話。



前回の稽古は、

今回の公演においての様式美をすっぽかしてしまっていた、ということが発覚しました。



「気持ち」も「様式美」も大事。


ですが頭でっかちで不器用な熊谷は、

気持ちの理解はできても、その様式美をキレイに表現するにはまだまだ実力が足りません。




なおかつ、

前回の稽古で、演出から決められた様式美的動きは、

役の気持ちだけで素直に動きやすい動きではございません。


あくまで、気持ちと表現は分離させたうえで、

でも、お客さんから見て、キレイでしっくり来る動きを体現する。



分離して考えることは大丈夫なのですが、

いかんせん、その段取りがまだ覚えきれていません(^_^;)



復習がてら、

今日の稽古前に自主練をしてはいたのですが、

いざ稽古が始まると、それでもまだ「……んん!?」となっております()



しかも、その動きは私だけでなく、

相手役の村尾さんにも連動してくる動き。


今回のお芝居では、熊谷がしっかりと芯を持っているべきお芝居ですので、

そこに熊谷自身の自信やらがないと、

見に来てくだささっているお客さんにも不安が伝わってしまいます。


いかにこの表現としての段取りが、

キレイに、かつ芯がある状態ですんなりできるようになるか。



ましてや相手役と連動する動きなら、

そこの呼吸も合わせなければいけません。


自分一人ではできない作業とはいえ、

私がしっかりしていないといけない役回り。



その確認も含めて、

また、その様式美が多発するお芝居後半戦を、

本日はメインに稽古しておりますm(_ _)m




ですが、その確認の稽古中に、

沢渡さんも村尾さんも、どうも私のお芝居プランに違和感を覚えたよう。


「どういう気持ちで今そのお芝居をしているの??」と聞かれました。



私は、こういうふうな土台の設定で、こういうお芝居プランでやってます、

と伝えると、

二人とも「あ〜……理解できるけど、あー、、、でもなぁ……

と、納得はできつつ、でも、おんなじ言葉が出てきました。


「台本上に書かれているセリフと、整合性が取れてないよそれ。」と。



???



あれ?

私なりに、台本上に沿って、

整合性を取るために、「こういうことかな?」と練ってきたお芝居プランだったのですが、、、



……どうやら、

私のお芝居プランが、台本上から逸脱したプランになってしまっていたみたい。



そして、なぜ逸脱しているのか?


「台本に書かれている以上のことは表現できないから、

そのお芝居プランは、お客さんに伝わらないし、伝えられない。」からだと。



台本に書かれていることとは、

つまり、セリフのこと。


ト書き、いわゆる台本上の注釈や補足説明などは、

あくまで台本を読んだときにわかる情報であって、

お芝居を「見に」来られる方には、全部を伝えられない情報です。


ということは、

お客さんに伝えられる舞台上の情報というのは、

基本的にはセリフであり、

体の向きや仕草などの、役自身の行動しかありません。



そして、

ト書きという、台本上における注釈を把握できていても、

役者も演出も、お芝居を作るうえで手に入れられる情報は、

基本的にはセリフだけです。



ですので、

基本的には、このセリフを一番の情報源として、

役作り、作品づくりをしていかなければならないのですが、、、



どうも話を聞いている限りでは、

私は台本に対して、

自分の好みの「二次創作」をしてしまっていたみたいです。



不条理劇の父、別役実さんの本は、

基本的に、出てくる役に対する設定や、

そもそもお芝居上の状況設定ですら、なんにも書かれていません。


別役さんのイメージらしき、「舞台上にある物」だけがサラッと書かれているだけです。


役に対するヒントも、お芝居に対するヒントも、

そもそもこの本のテーマなども、です。



そのため、

「書いていない分、自分なりに作らなきゃいけないよ。」

とは言われていたのですが……


自分なりの作り込みが、

大元の台本を無視した形になっていたらしい、

ということが、

私のセリフ回しや、そのセリフを言う心理が、

一貫しているようには見えなかった、

……らしい。




……う〜ん、、、

まだピンとは来ていない。


その設定や発想は悪くはないし、理解はできるが、

その設定だと、

このセリフを言うことや、この行動に対する動機がちぐはぐしない?

という話がお二人から。




台本上に書かれていない以上、

その設定やらを、自分たちなりに補填して、

かつ、台本を最初から最後まで一貫したものを作らなければいけない。


けれども、

その辻褄を合わすための設定は、あくまでも台本が元だし、

かつ、台本から逸脱してはいけないし、

でも、台本に書かれている以上、

そのセリフ、その行動はしなければいけないので、

役の言動に違和感を覚えたなら、

その辻褄合わせの設定は修正すべきだと。


……こういうことかしら??




言葉を足せば足すほど、

なんだかよりわからなくなってきている気がします(^_^;)




今日言われたことをちゃんとは理解できていないのですが、

とりあえずは、

「台本を無視しすぎて、自分勝手に作り過ぎちゃったのかな?」

と、仮で考えながら、

もう一度改めて台本と向き合ってみようと思いますm(_ _)m




ではではっ




熊谷